All or Non
少年は、とても不幸でした。
しかし、とても幸せになりました。
これはそんな話です。
『1』
「……ヤマト、ヤマト!」
声が聞こえる。靄のかかったような視界が、だんだん鮮明になってきて……
俺は何故こんなところにいる? まず、そんな疑問が浮かんだ。
何に使うのかよく分からない機械がそこらに溢れている、白を基調とした部屋。そこに白衣の連中がゾロゾロといるとなれば、ここは病院に間違いは無いのだろうか。
「……ここは……?」
「お前! ヤマトが目を醒ましたぞ!」
さっきから騒いでいるのは、声の調子通りにオッサンだった。少しは静かにして欲しいんだが、それは叶わなそうだった。
「ヤマト、本当に心配したのよ……アナタは一ヶ月も寝たきりで……」
今度はババアか。一体どうしたってんだ?
「……何なんだ?」
「え?」
思わず口に出てしまった。
その俺の言葉を聞き漏らさなかったババアは怪訝そうな顔をする。
「だから、何がどうしたんだ。ていうかアンタら誰だ?」
オッサンとババア、それと周りの連中は、見事にきょとんとしていた。なかなか滑稽なものだったが、場の雰囲気がそれを笑う事を許さなかった。
「ヤマト……どうしたの?」
「どうしたも何も……そもそもヤマトってのは誰だよ」
きょとんとしていた連中の表情が、凍りつくのが分かった。
「……山村先生! あんたには高い金を払ったんだぞ……完治させろって言っただろう!」
オッサンが白衣のチビ野郎に掴みかかる。そいつは、ヒイ、と悲鳴を漏らす。
「あのさ……とにかく俺にも分かるように説明してくれないか?」
「え、ええ……そうね」
ババアは硬直から立ち直り、説明を始める。
「アナタは……一ヶ月前に、酔っ払い運転の車に轢かれたの」
なかなか衝撃の告白だった。しかし俺には車に轢かれた覚えは無い。
「それで、この病院に担ぎ込まれて、今までずっと……」
「……で、あんたらは、俺の親とかか?」
「そうよ……何も覚えていないのね……」
そう言われても困る。覚えていないものは覚えていないのだ。
「先生、ヤマトの記憶が戻る見込みはあるんでしょうね!?」
オッサン……じゃなくて俺の父親? そいつが医者に食って掛かり、気弱そうな医者は弱弱しく弁解をする。まあ、当然ながらそんな調子じゃ殆ど場を治める効果は無い。
「……取り敢えずさあ、この訳わからねえチューブとかって必要なのか?」
体に、変な点滴みたいなモノが刺されている。痛みは無いが、体に何かが刺さっているというだけで、気になる。
おーい。誰か聞いてくれ。ねえってさ……。
この状況を見ると、この場で一番混乱するべき立場の俺が、一番冷静な気がしてならなかった。
ヒステリー全開で騒ぐなよ、みっともない……。
それも全て俺を心配してくれるからこそなんだろうが、それでも、無様なものは無様でしかなかった
そう思ってしまう自分が悲しくもあったが、それでも冷笑的に周囲を観察するだけの余裕は十分にあった。
『2』
俺の名前は、森村ヤマトというらしい。ヤマトという名前はもう分かっていたが、森、村という苗字は初めて聞いた。年齢は17歳だそうだ。
記憶障害が云々というのは、俺には難しくて理解できない部分も多かったが、要するに「言葉や一般常識など、日常で繰り返し刷り込まれている知識は、必要以上に記憶のバックアップがあるため忘れる事は無いが、友人などの記憶や、地理感覚などの、生活する上で必要を感じて意識的に覚えた知識は、流動的なものであるため、このような場合には忘れてしまうケースがある」だそうだ。
随分と都合の良い記憶喪失だと思うが……まあそういうものと捉えるしかないのだろう。
俺は、結局すぐに家に帰れる事になった。
体の傷はもう治っていたらしく、あとは意識が戻らないだけ、という状態だったそうだ。
まあ、俺としても嬉しいか……あのまま心理カウンセラーやら何やらが来てもらっても、はっきり言って困る。
俺は車に乗って、その家に向かっている。なかなか高そうな車だ。金持ちなのだろうか?
「……ここが俺の家なのか?」
「そうだ……」
運転している父の声は沈んでいる。陽気に行こう、というのは無茶な注文だと分かってはいるが、この空気には馴染めない。
「……俺は、どんな奴だったんだ?」
滑稽な質問だ。しかし、重要なものでもあると思う。
「学校で一番の成績をいつも保持して、運動も出来て音楽の才能もある……まあ、私の口からいうのも何だが天才というヤツだったよ」
……「だったよ」、過去形、か。まあ良いけどね。もう御期待に添えるとは限らない。今の俺は何一つとして覚えちゃいない。学年トップがビリになるのはそう遠くはないだろうよ。
「性格も、優しくて、先生からも……」
父の口調からは、昔を懐かしむような感じがあった。
「ふうん……今の俺とは、真反対のヤツってことになるな」
聞いていてもイラつくだけの自慢話を遮って、俺は言う。
俺には、学年トップだった記憶も、スポーツ万能だった記憶も無い……。だから、そんなものは、他人の自慢話でしかなかった。
やはり、森村家が金持ちだったというのは正解だったようだ。病院でも、かなり待遇が良かったのだから、当然と言えば当然だった。
父に先導され玄関から中に入る。中も広々としていた。フローリングの廊下の先に階段がある。それを昇ると見えてきたドアの前で父は立ち止まる。
「ヤマト……お前の部屋だ」
父はドアを開け、俺に内装を見せる。当然ながら見覚えは無い。
「……そうか」
「今、一階で母さんが昔のアルバムを探している。見れば何かを思い出すかもしれん……」
「ああ……そうだといいけどな……」
父は階段を降りていった。今の俺と、どう接して良いのか分からないのだろう。それは俺も同じだ。俺には彼らが親であるという記憶すら無いんだ……。
部屋を見回す。教科書やら参考書が本棚にきっちりと並んでいて、無駄なモノは一切無い。それにしても、漫画の一冊も無いというのは凄いのではないかと思う。CDラックを見ても、流行りの曲ではなくクラシックなどのすぐに眠くなる類の音楽しかない。
「真面目な優等生」という父の言葉はそれを見て完璧に裏付けされた。圧迫感を感じる。まるで、俺はこの部屋の主ではないと、部屋が言っているかのように……。
机を開ける。エロ本の一冊でも入っていれば可愛げがあるものの……と思ってのことだったが、そんな期待は見事に裏切られた。理路整然と文房具などが片付いているだけで、大した物は入っていない。まあ、あんまり期待もしていなかったが。合計で4つの引出しがある中、三つはこんな感じだった。本当に、何が楽しくて生きているんだ? 一応は自分の事ながら、不思議に思った。
……ん?
一番下の引出しだけカギが掛かっている。見える範囲にはカギは見つからない。何故だろうか。父や母に聞けば教えてくれるかも知れないが、「真面目君」な俺がそれを親にも隠していた可能性もある。だとしたら秘密のままにしておきたい。まあ、今のところはせいぜい心の内に留めておく程度の扱いにしておこう。
「ヤマトー!」
母が俺を呼んでいる。アルバムとやらが見つかったのだろう。
まあ、見ておいて損は無いだろう。得になるかは分からないけども。
俺は階段を降りた。
「どうだ……これは中学校を卒業したお前だ」
父は写真の一枚を指差して言う。卒業式の様子を写したものの様だ。
「いや、覚えが無い」
「……そうか」
「ヤマト、これはどう?」
「…………」
俺はアルバムを凝視する。
母の指差した写真は、体育祭か何かの写真の様だった。
とりとめの無い、他の写真と紛れてしまうような、これといった特徴の無い平凡なものだった。徒競走で俺が見事1位を獲得してテープを切る瞬間だ。まあ、アルバムの写真としては上等なショットだが、それだけだ。
「……ヤマト?」
「……いや、何でも無い」
その筈なのに、俺はこの写真を睨んでいた。睨む、というより、間違い探しをやる時のように、何か重要な要素を探していた。両親が俺を見ている事にも、気付かないほどに。
「ところで……明日から学校に行けるか?」
「母さんは行った方が良いと思うわ。何か思い出すかもしれないし……」
母は考えこむように口もとに手をあてた。
「じゃあ、取り敢えず明日から行くという事でどう?」
俺の意見は無視か? 一応は質問の形を取っているものの殆ど決定じゃないか。
「ああ……それでいい」
しかし俺は、反射的に、素直に従った。何故かは、まだ分からなかったけど……
分かりたくない理由が、俺の中にあるような気がした。
『3』
学校に行く時も、両親は俺に付き添ってきていた。付き添い、というよりも殆ど護送だ。高級車で校門の前に乗りつけるとは、少し過保護な気もした。一応はここらの地理に疎い俺の為の道案内ってことになっているが、毎日これが続いたらかなり嫌だ。
「ヤマト、ここだ」
父は車を止め、前を指す。俺はドアを開け車から出る。
「じゃあ、私達はそれで行くが……ヤマト、自分のクラスは覚えているな?」
「分かってる。2−1だろう。昨日もう何回も聞いた」
愛想笑いを浮かべて言うと、両親もつられて笑った。
その言葉に安心したのか、父は車のドアを閉め、発進する。
やっと行ったか……。はっきり言うと、彼らと話すのは疲れるだけだ。お互いにどこか自分と俺の間に境界線を引いている気がして……。
記憶を失う前の……『真面目君』なら、彼らと気兼ね無く喋れたのだろうか。
結局、俺は彼らとは赤の他人でしかなかった。喋る度にそれを実感した。
「森村君、事情は御両親から聞いた。先生も出来る限り力に……」
職員室になど寄らずに、すぐに教室に行くべきだっただろうか。
目の前の担任教師の言葉が、俺にはたまらなく白々しく聞こえる。無意識の産物かもしれないが、野次馬根性が見え隠れしていた。
百歩譲って、それは我慢するとしよう。これは確かに面白そうな話のネタだろうよ。だが、周りの教師全てがこちらに注目しているってのはどういう事だ。それほど楽しいか? 俺の『不幸』が。
下品にも程がある。誰がお前らなんか頼りにするか。
そんな思いが顔に出てしまったのかもしれない。教師は「どうした?」と尋ねた。
「いえ、何も」
適当に答えを返した。どうせ、俺がいなくなった後に好き勝手な噂話を始めるのだろうが……。
それを指摘したところで、態々こいつらに話のネタを提供するだけだろう。だから何も言わなかった。
「森村!」
職員室に入ったときから、予想は出来たことだったが、実際に体験するのは鬱陶しい事限りなかった。
教室でも、俺への対応は職員室の教師どもと何ら変わりはしない。
名前も忘れたクラスメートは、俺を気遣う様子を見せる。……『様子』をな。
俺が自意識過剰なだけだといいのだが……。しかし、それは見当違いだったと速攻で痛感する事となった。
「なあ、どんな感じなんだ? キオクソウシツってさあ」
五月蝿い、死ね。
そう言ってしまえば、この馬鹿は消えるのだろうか。
体裁だけでも繕った教師連中はとても御立派でした。心の底からそう思える。
「……別に、そんなに愉快なモノじゃないさ」
それでも、出来るだけ愛想が良くなるように努めた。
しかし俺の本心は明確に相手に伝わってしまったらしい。話しかけてきた同級生は、怯んだ顔をした。
「そ、そうか……それにしても、性格まで変わったな……」
「……前の俺は、どんなヤツだったんだ」
「まあ、そうだ……いつもオドオドしたハッキリしないヤツだったよ。今の森村とはえらい違いでさあ……」
「えらい違い……そうだな。そうだろう」
「けど、ええと……今のお前は、ハッキリしていて、いいと思うぞ」
どこまで本心だか怪しいものだが、取り敢えず俺は礼を言った。
「で、俺の席は何処なんだ?」
何もしてないのに疲れた。早く座りたい。
「……ああ、あそこだ」
そいつは、狼狽したような表情で、俺に道を空けた。
馬鹿らしい。本当に、馬鹿らしい。
みんな、俺のことを心配なんてしていない。ただ興味の対象であるだけだ。
授業中は苦痛だった。教室中の視線が無遠慮に俺に突き刺さるような気がして……
精神力をとても要した。
「お帰り、ヤマト」
家に帰ると、父が出迎えに来ていた。流石に帰りも車で迎えにくるという事は無かったが、こんな時間に家にいるという事は、仕事を休んでいるのだろうか。
「ただいま」
それも、恐らくは俺の為だろう。そう思ったから出来るだけ愛想良くした。
「それで、何か……」
「……いや、何も」
「……そうか。まあ、まだ一日目だ。そんなに気にする事は無いさ」
それだけの会話で意思疎通できてしまうのが凄い。それだけ、父と今の俺には共通の話題が無いのだろう。
「リビングには母さんもいる。今日あった事を話してくれないか?」
黙ってしまった俺に、父は優しく声をかけた。
「……そう」
母も、やはり落胆した様子を隠せなかった。
まあ予想の出来た反応だ。俺は何も言わなかった。
「明日があるさ、なあ!」
落ち込んだ様子を隠せない母に、父は明るく声をかける。それでも母は俯いたままだ。
「……なあ、俺は……学校ではどんなヤツだって評判だったんだ?」
父の『勉強も出来てスポーツ万能。先生や生徒からの信頼も厚い』という言は、学校の連中の反応を見る限りかなり親馬鹿が入っていると見るべきだろう。テストなどのデータを見る限り、確かに勉強は出来たらしいが『信頼が厚い』とはあの待遇を見る限り考え難かった。
そんな俺の感想を両親にもらすと、両親は……特に母は実に複雑な表情をした。
「そうね……確かに私達からでは見えないものも沢山あったでしょうね」
「ふうん……なら、家ではどんなヤツだったんだ? 親の贔屓は抜きにさ」
「……いつも、部屋に篭って勉強していたよ。だから成績はとても良かった」
だろうな。心の中だけで呟く。
「他には無いか?」
父も母も黙ったまま、何も言わない。つまりは、両親ともに『家での森村ヤマトは部屋で勉強をしていただけの少年です』という認識しか無かった、という事か。
本当にガリ勉なだけの『真面目君』だったのか……? それとも、両親に隠して何かやるくらいの行動力はあったのだろうか。
俺が考えたところでどうしようもない。『知った』としても『思い出した』のでなければ何の意味も無い事だと理解していたが……。それでも、知りたかった。『真面目君』の事を知る事こそが、記憶を取り戻すカギだと感じていた。
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