僕は、間違っていたのだろうか。
そのまま、『それ』を見逃すべきだったのだろうか。
『それ』は正しかったのだろうか。
分からない、けど僕は正しくないと思った。
僕は犯罪を犯した。
それでも彼女は助からなかった。
足音が聞こえる。
金属が擦れるような嫌な音を響かせて、僕を追ってくる。
殺すがいいさ。
もう、特に生きていたいとは思わない。
神様の居場所 (「雲と空の間に」より改題)
作 kazama 初出 「ごーいんぐまいうぇい」へのEVA小説としての投稿
朝が来た、目覚ましのベルが鳴る。R108は目を覚ました。そしてごく自然に食堂に向かうべく、着替えをする。
『外』ではまだ戦争が続いているのだろうか?
それは彼女等には関係の無い事だ。『外』のゴミ溜めのような戦乱と犯罪の溢れる世界とは関係の無い所に彼女等『天使』は居るのだから。そして、穢れなき『聖なる人類』とそして生きていくのだから。
昨日見せられたテレビでは、また新しい内戦が起こったらしい。
銃を持って住宅街に入っていく兵士と、それを見て必死で逃げる住民の姿を見た。無論、兵士は銃を撃った。それによって死んだ人間など考えるだけ無駄だろう。
血まみれになって倒れていく人を見た。それを踏みつけて進む兵士も見た。爆弾が街中に投下される。花火のような爆発を上げたそれは、いったい何人の命を奪ったのだろうか。
そこには殺された人々の深い怨念と死に逝く人々の強い無念で満たされていた。
ふと、それを思い出してしまいR108は小さく溜息を吐いた。
殺された人々には特に哀切な思いは無いが、『外』の世界に対する絶望感があった。
ここを一歩出ると、人々は憎しみ合い、傷つけ合いながら生きている。
だから自分達『天使』はそんな世界を変える為の新人類となるのだ。神の愛を受けて育った人間はそんな愚かしい行為はしないから。
R108は着替えを終え廊下に出た。本日も晴天。大型スクリーンには今日も太陽が昇っている。
スクリーンの青と壁の白、それ以外には色の無いその空間をR108は歩いていく。そこはゆったりした螺旋を描いており、どこか近未来を思わせる廊下だった。
R108の部屋から数えて12個目の扉、それが食堂の場所である。彼女はそのドアを開けた。
中にはもう他の『天使』達が集まっていた。彼女は遅い方だったらしい。
食堂は体育館のようにとても広く、壁一面がガラス張りになっている。外にはいくつかの白い建物がある。そのもっと向こうにはまた真っ白な壁。
彼女等『天使』の中には『外』に行きたいと願う者など居る筈も無い。『外』は汚く、穢れている、彼女等にはその認識しか無い。それはその通りなのだろう。実際『外』では先日、戦死者の数が億を超えた。
だから、その白壁は彼女等を守ってくれる、言わば城壁のような存在だった。
『天使』には名前が無い。神の愛は皆に分け隔てなく与えられる。特定の個人を区別する必要など最初から存在しない。
どうしても個人を区別する必要があるときに限って、名前の代わりとして存在するナンバーがある。
それは『天使』達の首に、ネックレスのように下がっているナンバープレートによって分かる。十字架のヘッドをした、高級そうな物だ。
ナンバーの由来をR108は知らない。世俗を捨て、他者のために生きる者となる彼女にとっては自分に興味を持つ事など許されないからだ。
また、彼女自身も特に興味が沸かなかった。
朝食のテーブルには、焼きたてのハムエッグに上質そうなトーストパン、色鮮やかなオレンジが並んでいる。
それは『天使』のための食事で、彼女の世話をする人間達は何時も色の悪い合成肉やデンプン粉などを食べて暮らしている。
餓え、という感覚をR108は知らない。どんな時でもお腹が空いたら食べ物は用意されたからだ。
テレビには肋骨が透け出るほどにやせて、それでも生きようと泥水を啜っている人が映される。
それが餓えというもの、と世話役の女性から教えられただけだった。
不作や凶作といった自然に起こる飢餓は、とうの昔に解決された。
今のこの状況は、全て人の手によるもの。一部の権力者が自分のもとに食料を集め、高値で売りつけているのだ。
現在の餓えというものは、皆で分け合えば無くなるものなのに、一部の人間が独占してしまうから起こるものだ。この世界で起きる争いの全てはこうした自己中心的な考えから起こるものだ。R108の幼い頃、世話役の女性はそう彼女に語った。
その時の彼女は20代かそこらだった。その大人と感じさせて、尚且つ若々しさを感じさせる容貌に、R108は憧れていた。
しかし、今の彼女は顔に皺があり、大きな声を張り上げて太った腕で仕事をこなしている。あの時R108が感じた憧れなどはもう微塵も無い。
それが歳を取るということ。R108はそれを理解した。それはR108にとって嫌な事だったが、彼女は何の心配もしていない。
『天使』は16歳になった時に神の手によって生まれ変わるのだ。人間などという矮小な器を捨て、人類を導くに相応しい神々しい存在になるのだという。
この青い髪も、赤い瞳も、全ては仮の姿。その仮の衣を捨てた時、自分は人類を導くに恥じない、素晴らしい存在になるのだと信じている。
たとえ仮の姿だったとしても、一番美しい時だけを生きられる事に彼女は感謝していた。
R108は今日で、16歳の誕生日まで一週間となっていた。
食事が終わり、『天使』達は礼拝の為にホールに向かう。戦争が絶えなくなってから宗教の数は急増したためどんなものかは分からないが、天使の像がホールに堂々と立っており、『天使』達はそれに向かって手を合わせ祈りを捧げる。
物心ついたときからの習慣なので、誰も文句も言わずに手を合わせる。これにいったいどのような意味があるのだろう?当然、そんな疑問を持った者などはいない。
行儀よく椅子に座って祈りを捧げる『天使』達を見てみると、とある共通点が見出せる。
前、中央、後ろと三列に並んだ『天使』達。よく見ると……いや、よく見るまでも無く、列ごとの『天使』の容貌がとても酷似している事に気づく筈だ。
前に並ぶのはR108を含んだ列で、皆R108と同じく青い髪と赤い瞳を持っている少女である。
中央には赤い髪に青い瞳と、R108の正反対とも言える容貌の少女が座っている。
後方には銀色の髪に赤い瞳、R108に少し似ている特徴を持つ少年たちの集団が。
この、いきなり見たら10人が10人驚きそうなこの光景を見ても驚く者はここにはいない。
彼女ら本人は勿論の事、まわりの世話人(たとえそれが今日来たばかりの新人であっても)も驚きはしないのだ。ただ、ときおり何故か哀れむような視線を受ける事があったが。
それに気づいていたR108はとても不思議だった。何故?自分は選ばれた者なのだ。何故そんな目で見る?
特に最近、R108が16歳になろうかという時にその視線を多く感じていた。
……本当に分からないな。理解できないものは、それで二つ目か?彼女は体勢こそ祈りのポーズを取っていたものの、心は別のところにあった。
一つ目の理解できない事。話は、10年前まで遡る――
「もう。私はこんな仕事には耐えられません!!」
突然のヒステリックな声。高さから判断すると女性のようだ。
びくり!いきなり聞こえてきた大声に6歳のR108は身を竦ませた。
廊下を歩いていたところにいきなり大声がするなど、ここでは無に等しい事だった。だから彼女の記憶にもはっきりと残っていたのかもしれない。
声は世話役のロッカールームのドアの向こうから聞こえてくる。R108は思わずそこから聞こえる声に聞き耳を立てた。
……今思えば、そんなことは『天使』としてあるまじき行為であったと思う。ただ、その時は自分は何も分かっていないただの子供で、珍しい『怒鳴り声』というものに興味を持ってしまったのだった。
「何言っているの……私達の仕事があるからこそ、何人もの病人が健常者になっているのよ」
もう一人の声。そちらも女性だ。
「けど。その為には……!!」
喚いていた方の女性は酷く苦々しげだった。
「些細な事よ。そんなことを気にしていたら何も出来なくなるわ」
「そんなこと!?そんなこととはなんですか!!」
「ふう…アナタは、ここの仕事には向いていないようね」
「顔色一つ変えない皆がおかしいんです……」
「そうね、でもアナタも喚いているだけで結局は私達と同じ事をしている。それを忘れて私達を糾弾することは出来ないわ」
「………」
……これ以上の事は、人が通りかかったため聞く事が出来なかった。
今なら、彼女らの言葉の意味がわからないという事など無いが、何故そんな事を言っていたのかはとても不思議だった。
ただ、喚いていた方の女性が数日後にいなくなってしまった事は覚えている。
世話役の声に意識を現在に戻し、R108は祈りのポーズを解いて両手をひざの上においた。
ここで世話役が何かを言うなんて珍しいな、そう思った。何時もならただ黙って微笑を浮かべているだけだというのに、今はとても重要な伝達事項があるようで、皆の集まるこの時間に何かを言いたいようだった。
「皆さん、今日はお知らせがあります」
唐突な世話役の声に何人かが驚いたようだった。
「ここに新しい『天使』の仲間が来ます。この子は少し皆と外見が違いますし、『外』から来たため『天使』に相応しくない言動を取るかもしれませんが、彼の事情を理解してあげて仲良くして下さい」
そんな事を言われたのは初めてだ。何時もなら突然増えていたというのに。
「その子は今日の夜に来ます」
世話役はそう言うとまたいつもと同じ微笑を浮かべた顔で黙る。
R108はその仲間というのも気になったが、今は自分の誕生日に心を膨らませていた。
そして、夜が来た。食堂にて夕食を摂ったR108達『天使』は静かに、誰も喋る事も無くその仲間の登場を待っていた。
「皆さん、お待たせしました」
世話役がそう言って入ってきた。後ろには些か線の細い少年を連れている。
その少年は確かにR108達とは遥かに違っていた。黒い髪に黒い瞳、不健康そうで微塵も『天使』としての神々しさを感じない容貌に、その上やや猫背気味でそれが低い身長と相俟って情けなく感じさせた。
しかし、そんな事よりも少年の特徴といえばその瞳だ。その黒は何も映していない、映そうともしないかのようで、虚ろに暗く濁っている。
今まで彼女らが感じた事の無い感情をこの少年は帯びていた。
それは絶望といった類のものだったのだが、それを彼女らは誰一人として知らないのだった。
『天使』らが注目を受けながら彼は小さく会釈をするとふらふらと近くの椅子に座った。
世話役はこの少年は『外』から来たと言っていた。それでは、これが『外』で暮らした事の結果なのだろうか?
そう考えるとR108は薄ら寒いものを感じたが、自分には関係ない事だ、もうあと一週間で自分は……
彼女は少々の憐れみを持って少年を見た。
彼は今だに無表情だった。
食事が終わってからも、誰も少年に話し掛ける者はいなかった。もともと彼らはどんな時でも全くと言っていいほど私語というものをしなかったが、今回は特別に静かだった
空気が重いのだ。原因はいうまでも無く少年である。彼のナンバーはS123というそうだが、R108にとってはどうでもいいことだった。
彼女は何故か彼が気になった。何故こんな顔をしているの?そう聞いてみたかったが、重い空気に押しつぶされてそれは叶わなかった。
誕生日を迎えるまでの一週間、何とか彼と話すチャンスは無いだろうか。聞きたい事なら沢山あった。興味を持つ事は悪、と言われても気になって仕方が無かった。
彼の放つ雰囲気は彼女の記憶に残っているあの怒鳴っていた世話役に似ていた。ただ、世話役とは違うのは、彼はもう何もする気の無い、完全な無気力状態であったということだけなのだった。
あの時の世話役と彼の雰囲気が似ているということは、R108も一目見た時から気づいていた。
だからなのだろうか?彼は今や彼女にとって第三の理解不能なものになっている。だから、知りたいと思うのだろうか。
そこで彼女が多感な少女であったなら、それが一目惚れ?などと思ったはずだが、R108が見てきたものの中にはそんなことに関する情報は無に等しかった。
ただ、不思議だった。
数日が経った。あと一日でR108は誕生日を迎える。
まだあの少年とは話せていない。それが少しばかり心残りではあったがもうそんな事は関係無い。自分はもう肉体を捨て、神の子になるのだから。
今日も一日が始まる。彼女にとっては、ただの人間でいる最後の日。
彼女はいつも通りに朝食を摂り、廊下を歩いていた。
どこまでも続くかのような錯覚を覚えさせる真っ白な螺旋状の廊下は、人によっては不気味さすら感じさせるものであったが、R108は上機嫌だった。
明日には、明日には、明日には……
長年夢見た、そう……自分は……生まれ変わるのだ。そして神になる。
しかし、明日を思い上機嫌どころか完全に浮かれきってる彼女に水を差す存在が彼女の前に立っていた。
「君…明日で16になるんだよね?」
それは彼女の気にしていたあの少年だった。
少年は無表情を顔に張りつけて、確認するだけ、と言った感じで口を開いた。
「そうよ?」
少年の突然の登場に驚いたものの、R108は優越感を持って答える。本来ならば他人を見下すかのような行為は禁じられているのだが、今の彼女はそれを忘れてしまうほどに浮かれていた。
「ちょっと話がある」
「……何?」
訝しげにR108は言うが、少年は特に気にした様子も無く「ここじゃまずいから」と手近にあった物置として使われている部屋に入った。
彼女もそれに続く。
何故だか、一言も反論せずに従ってしまった。
それは彼の声があまりにも無機質で興味以上に恐怖を覚えてしまい、頭が麻痺したのかもしれないが、今の彼女にはここまで考える余裕などなかった。
「話とは、明日の『儀式』の事だ」
少年は部屋に入るなり唐突に切り出した。
少年が少女に二人きりになりたがる、というとどうしても下品な想像をしてしまうものだが、二人の間にはそれもある筈が無い。
R108はドア近くのダンボール箱の上に座り、少年は立ったままだった。
「『儀式』?」
「そう。彼らはあの行為の事を『儀式』と呼んでいる」
「あの行為って何よ」
「君が16になった時に受ける行為の事さ」
少年は自嘲的な笑みを浮かべ、
「僕はその『儀式』は人類にとって無くてはならないものだと思っていた。人道面など無視してもまだ釣銭が来るくらい偉大な事業だと思っていた」
いきなりの唐突な告白に、R108は多少動揺して、
「どういうこと?」
困惑顔で聞いた。
「僕の仕事は『材料』の監視と世話だった。同年代の方が気づく事もあるだろうという事でこの仕事に就かされた」
少年はその質問を無視した。
「最初は何とも無かったんだ。所詮彼らは材料……モルモット以下の生物、他者の糧となるべく生きるしかないモノと割り切っていた。」
一呼吸置いて。
「けど……僕は、その『材料』の内の一つが……心の底から大切に思えるようになってしまった」
R108には少年はわざと『材料』『一つ』という言葉を使っているように思えた。
「私、アナタが何を言っているのか全然分からないわ……」
またも疑問を投げかける。しかし少年もまたそれを無視し、昔語りを続行する。
「僕は、彼女を『儀式』から助けたかった。しかしそれは叶う筈も無く、彼女は逃げ出そうとしたところで撃ち殺された。そして僕も記憶操作をされた後に『材料』の一つになった……しかし僕のその記憶はそんなもので消せはしなかった。僕はまだ覚えていた」
少年は言葉を切った。
「『儀式』とは臓器摘出手術の事さ。君の臓器はこれから何人もの病人の中に入る事になる」
「それって……そんなの嘘に決まっているわ。皆が今まで嘘をついていたって言うの!?」
「嘘はついていないさ。それも一つの『他者のための生』、つまりは神の行為に等しいからね」
君が死ぬ、というのが前提条件だけど。少年は付け加えた。
「そんな……そんなの……」
嘘だ、嘘だ、嘘だ。ただのデタラメだ。その怪しい少年の言葉と優しい世話役の言葉、どちらを信じるか?決まって……いるではないか。
「そして、君は作られた人間。つまりはクローンだ」
追い討ちをかけるように、さらに重大な事を告げた。
それでは彼のいう事が本当なら、自分には生きてきた意味どころか生まれてきた意味すらないのか?『材料』になる事以外には。
いや、何を考えている。そんなもの全て嘘に決まっている。ただのでっち上げだ。
「クローンならどのように扱っても法律上問題ないとかでね」
頭がこんがらがる。分からない。彼は何を言っているのだろう?
「……信じてはいないようだね。当然だけど。けれどもこれが真実。目を逸らす事はできないんだ」
そう言うと少年は、ふう、と息をついてR108の答えを待った。
R108は何も言わなかった。というより、少年の言葉にショックを受け、言えなかった。
嘘に決まっているだろう。この少年は『外』から来たのだ。多少おかしな事を言っても仕方が無い。
しかし、この少年のその……説明しがたい雰囲気はなんなんだ?
悲しい、憎い、そういった感情を全て超越して……なにも無くなっている、それは一体?
それも『外』の人間だからなのだろうか。しかし、テレビに映っていた『外』にもそんな人間はいなかったと思う。
では……それは彼が『外』から来たという事には関係無くただ、彼の言っていたことを経験すればそうなるのだろうか。
何も喋らないR108を見て、少年は一方的にさらに続けた。
「逃げる気はある?」
その言葉に、びくりとR108の体が震えた。
「そんなこと……」
「できるさ。僕が前にいたところと違ってここには武器を持った警備員などはほとんどいない。ダストシュートから簡単に外に行ける。脱走などしないよう、『外』を薄汚いものと定義し続けたのだから」
「していいの?」
「いいわけないだろう。しかし、そうしないと君は殺される」
R108はまたも沈黙する。
「心当たりは無いかい。僕が言った事に」
心当たり……何故、自分は哀れむような目で見られたのだろう?何故、あの世話役の女性は「こんな仕事には耐えられない」と言ったのだろう?
心当たりはあるではないか。あとは、それを認めたくない自分がいるだけ。
「ある……わ」
「なら……」
「けど、私はいいの。それも他者の為に生きるという事なら、それでもいいの」
「何を言っているんだ。いいか、君は殺されるんだ。君が『儀式』を迎えたところで神になるのではなく、せいぜい道具か材料になるだけなんだ」
淡々と。しかし、殺される、という部分を強調して。
「他者の為の生なんて無い。それはただ他者に利用されるだけという事……それを忘れないで」
少年はドアを少し開け、周囲に誰もいないのを確認すると出ていった。
時間はもう昼。R108の『儀式』まではあと半日ほどしかない。
彼女は考え続けた。自分はどうするべきなのだろう?
自分で考える。それは生まれてはじめての経験だった。
少年は廊下を歩き、自分に与えられた部屋にと帰ろうとしていた。
何故、自分は彼女にあんな事を言ったのだろう?自分が言ったところで、信じる筈も無い。
それにもう『儀式』云々に関しては他人事ではないのだ。自分もここにいるという事は。
生きていたいとは思わない。それが自分の正直な心だった。
彼女が死んだ瞬間、自分の生も終わったのだ。本気でそう思っていた。
そうか……結局はまだ足掻いてみたいのか?絶望した筈なのだけど、もう一度。
クローンなら、死んでいいのだ。どう扱ってもよい。その考えにもう一度反抗したかったのかもしれない。
或いは、彼女の死から自分が立ちあがり、他のクローンを助ける事で彼女の死を有意義なものにしたかったのかもしれない。
それとも、今の行動には何の意味も無かったのかもしれない。
ふと前を見る。
白で埋め尽くされたここには似つかわしくない、黒服の頑強な体の男が数名、彼の前に立っている。
「君、困るのだよ……」
いきなり言った。
「君のR108との接触は全てカメラで監視されていた。上が判断するところによると君は処分するべきとの事だ」
男達は少年を取り囲むように近づいた。
周りにはほとんど誰もいない。前もってここを立ち入り禁止にしておいたのだろう。
用意のいい事で。少年は顔を歪めた。
「そうだね、それもいい」
少年はするりと男達の間をすりぬけ、廊下の端へと駆けていった。
警報が鳴り響く。
男達の足音が、警報にかき消される。
「あの子は……これを見たら少しは考えてくれるだろうか」
鳴り響く警報と、強面の男。ここも彼女らの言う『外』と全く変わらない陰謀が渦巻いている。それに気づいてくれるだろうか。
「まあ、僕に出来るのはこれまで……あとは彼女の考える事か」
男達は少年に拳銃を構えている。
少年は全く変わらない顔つきでそれを見つめる。
「そろそろ、終わりにしようか」
ドガン!!
数発の銃声が響いた。
自室でぼんやりとしていたR108は、突然のサイレンに顔を上げた。
今まで、こんな事無かったのに……
不安になって廊下に出る。
そこでは、世話役や見なれない黒服の男達が慌しく走り回っていた。
「あ、あの……」
おずおずと近くにいた世話役に声をかける。
しかし、騒音に掻き消されてその声は聞こえなかったようで、世話役は他の世話役と話している。
「どういう事ですか、そんな事が起こるなんて!」
「知りませんよ、そんな事!」
どうしたんだろう。R108は隠れながらなんとか進んでいく。立ち入り禁止の札は無視させてもらった。
廊下の端まで来たようだった。白い壁が見える。
そこが騒ぎの元のようで、黒服の男が何かをやっている。
懐から何やら黒い塊を取り出した。
ドガン!!
聞いた事の無い音。次の瞬間、R108は白い壁が赤く染まるのを見た。
それは、何と言うのだっけ?確か、血という……
ずるりと何かが倒れた。
赤く染まった顔は、あの少年のものだった。
「嫌あああああああ!!」
R108は自分が混乱していくのを感じた。しかし、思考だけはしっかりしている。
……それが、死というもの。そう、彼は死んだ、殺されたのだ。
殺したのは誰?あの人達。
あの人達は、ここの警備員。
そこまで考えが至るとR108は一目散に人のいない方向に駆け出した。
後ろからは今度は自分を追ってくる者がいるのだろう。足音が聞こえる。
壁まで行き、少年に教えられた通りダストシュートを開け、飛びこむ。
彼女は体験した事は無いが、ジェットコースターと似た感覚が彼女を包んだ。
追っ手は小柄な彼女と違いダストシュートに入るのに苦労しているようで、もたついている。
右に曲がり、左に曲がる。大型プールのウォータースライダーのようなダストシュート。
体には、黒い汚れがこびりつく。
もはや天使でもなんでもない、薄汚い姿にたちまち変わる。
追っ手は来ない。少年の言葉は正しかった。
恐らく、ここで逃げたとしても碌な事は無いだろう。
結局はのたれ死ぬだけだろう。
けれど、死にたくなかった。
他者の為の生も神も何もかもが関係無かった。ただ死にたくない、生物としての本能だけだった。
あの少年は、自分に何を伝えたかったのだろう。今となっては、知る事は叶わないけど。
ダストシュートが終わり、尻餅をつきながらも何とか着地する。
足が疲れて、鉛のように重い。
薄い室内靴は、もう汚物で真っ黒になって、靴下までも真っ黒に染まっている。
気分は最悪だったが、ひたすらに走った。
前には、小さな出口があるだけ。まだまだ遠く、とても小さく見える。
先は暗く全く見えなかったが、薄暗いダストシュートを抜けさえすれば、青い空が広がるのだ。
彼女はそう信じて、薄汚い道を走り抜けた。
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