黒猫紳士
『1』
俺は紳士だ。ざぶざぶ降る雨のおかげで、タキシードの如く黒光りする毛皮はぺっしゃんこになっているし、寒さのあまり耳が寝てしまっているが、紳士だ。
俺は野良だ。人間に尻尾を振って生きさせてもらうなんてまっぴらだからだ。紳士はどんな人物に対しても卑屈にはならない。
上空を見上げると、分厚い黒い雲が太陽を隠しているのがわかる。その雲から、大粒の雨が早い感覚で俺に突き刺さっている。
今日は、何も食べていない。こんな雨だからか、どうにも思うように食料が見つからないのだ。いつもなら、何かしらを手に入れている筈だったのに。
だから、俺は空腹を引きずりながらも歩かなければならない。食料を見つけるまでは空腹で眠る事すら出来ない。もっとも、今日は屋根のある場所でなければ寝れないだろうが。
視界が霞んできた。俺は大丈夫だ。きっと、この雨が目に入ったんだろう。
何故だか、足取りがおぼつかない。それは何かの間違いだろう。何故なら、紳士は常にスマートであるのだ。
何処からか、サイレンの音が聞こえる。この雨で火事も何も無い。とすると、パトカーだろうか。
どうも、それは近づいてくる。何をする気なのかは知らないが、もう少し静かにいけないのだろうか。常にエレガントに、などと無粋なニンゲンなどに云う気は無いが、ここまで騒々しいのには閉口する。
パトカーは、俺の予想どおりのコースを通っていた。俺の歩いている道路に入ってきた。ライトが黒いアスファルトを照らす。雨粒が宝石のように光った。
俺は道路の隅に移動し、パトカーに衝突しないように身構える。真後ろには、ビル同士の隙間によって生じた道があった。ひっくり返されたゴミ箱が不潔だ。ここから食料を漁ろうかとも思ったが、どうにもめぼしい物は全て獲られた後だったようだ。
舌打しつつも、一縷の希望に縋ってゴミ箱の中を覗きこんだ。しかし、悪臭を放つ物体が詰込まれているだけで、摂取可能な物は無かった。
疲れた。ゴミ箱を覗くために、飛び上がっただけだというのに、俺の体の疲労は限界を遥かに超えていた。
しかし、こんな場所で眠る訳にはいかない。一晩中雨に打たれていては死んでしまう。
食料は諦めて、よろよろと俺は屋根を探した。無かった。
体力は、限りなく限界に近かった。これ以上は一歩も歩けない……
そう思った時、俺の視界は暗くなっていった。
『2』
目が醒めた。本気で死を覚悟したが、俺は生きている。
汚らしいタオルの上に、俺は寝かされていた。しかし、床はもっと汚い。床だけでなく、壁にはところどころ穴が空いていて寒いし、天井はガタガタ揺れている。さも当然のように、電灯の類は無かった。
ここの住人は誰だろうか、と思った。死にぞこないの猫を拾ってくるような物好きでいて、尚且つ生活水準は限りなく低い。ここが本宅とも限らないが、ここには人間が生活している痕跡がいくつかあった。だから可能性は無くは無い。
ドアも、天井と同じように揺れている。風に吹き飛ばされないだろうかと、少し心配になった。
ドアを眺めていると、急にそれは開いた。
入ってきたのは男だった。年齢の程は、暗くてよく分からない。しかし、憔悴しきった表情は感じ取る事が出来た。
男は傘をさしていない。ずぶぬれになりながら、ここに来た。
「やっちまった……」
俺は男に礼を言いたかったが、当然ながら人間の言葉など喋れるわけが無い。ただ、男をじっと見詰めた。
男は、大きなリュックサックを背負っていた。中身は詰まっていて、重たそうにしている。
だからか、リュックサックをおろした。無造作におろしたため、衝撃でボタンがとれてしまい、中身が散乱する。
そこから出てきた物は、紙切れだった。同じ模様が印刷された紙切れが、何千、何万と詰まっていた。
たしか、それはカネという代物だったと思う。人間の暮らしを長い間見てきた俺でも、コレの価値だけは理解できない。
人間達は時折、コレを支払って何かを手に入れるが、こんな紙切れをもらって嬉しいのだろうか? 俺だったら食糧の方がよほど貴重品だ。
男は、頭を抱えてうずくまっていた。何か悩みがあるのだろうか。俺でよければ、相談に乗ってやるぞ?
そんな思いを抱いて、俺は「ニャー」と鳴いた。
俺の声を聞いて、男は初めて俺の存在に気がついたようだった。正確には、思い出した、だろうが。
「猫か、拾ったんだっけな」
男はぼうっと俺を見ていた。虚ろな目がこちらを向いている。
「あああ……俺は」
しかし、俺を眺めるのも束の間、男は再び頭を抱え出した。
そんな男を尻目に、俺は男のリュックサックに近づき、中を覗きこむ。
大量のカネ。明らかに不自然だと思う。この男がどういった人間なのかは知らないが、人間はカネを持ち歩く時に財布という物を用いる。それに、持つといっても精々2、3枚程度のものなのだ。それなのに、男のリュックサックには数えきれないような数のカネが入っている。
人間の社会には、カネを一点に集めておく場所があるらしい。そのカネを欲しがる人間が、非紳士的な行為を行って、それを奪う事件が多発していると聞いた気がする。
それが、その男なのだろうか?
残念ながら、俺は男と意思の疎通を取る手段を持っていない。永遠に持ち得ない。
「親にどう言い訳すりゃいいんだ……?」
男はまだ語っている。俺に聞かせるつもりなのではないだろう。恐らくは、独り言。
「けど、こうでもしなけりゃアイツは……」
「ニャー……」
男は俺を見た。俺に凝視されている事に気付いたようだ。
「猫はいいよな」
あまりよくないぞ。ついさっき、死にかかった。
「人間みたいに、馬鹿馬鹿しい事に縛られないですむ。カネだなんだって、考えないですむんだから……」
俺を見据えて、男は言葉を紡ぐ。
しかし、それは俺に向けられた言葉ではない。ただの愚痴だった。何に対するものかは、あまりにも対象が広域だったため俺には上手く判断できなかった。
「ああ、それでアイツも犯罪者の息子か……それ以前に、死人か?」
自虐的な笑みを浮かべる。さっきから何を言いたいのか理解できない。
「なあ、猫」
おお、何だ?
「ニャー?」
「お前だったらどうする? 大切な人が死にそうになってた時、強盗でもしなけりゃどうにもならなかったら……」
強盗、というのはカネを奪う事を指すのだろう。そうなった場合……どうだろう?
そのような非紳士的行動を取ってまで、助けたい人物は俺にはいない。だから何も言えない。無責任な意見は言いたくない。
「ニャアアア……」
よく分からないというニュアンスを込めて、俺は前足を一瞬だけ挙げた。
「……そうか。何だか分からんが、答えてくれてありがとよ」
俺の意思は伝わらなかったようだ。
「私は、逃げ延びなければならない……」
やってしまった以上は、最後まで成功させなくては。そういう男の覚悟を感じた。悩みはふっきれていない様子だったが、考える事自体を止めた。
「せめて、カネだけでも、何とか届けなければ」
俺はリュックサックの中のカネを見た。大した量だ。それだけのカネがあれば、人間の世界ではかなり裕福に暮らせるだろう。
そういえば。俺は思った。
まだ、この男に礼をしていない。命の恩人に礼をしないなど、紳士失格である。さっきの一件で、簡単なジェスチャーくらいなら伝わる可能性を見つけた。
「ニャ……」
何とか後ろの二本の足のみで立ち上がる。そして、そのまま前傾の姿勢を取り、再び日本足で立つ。人間の言うところの『礼』である。
「こいつ、私に感謝してるのか?」
男は、面白そうに俺を見た。こちらは真剣にやっているというのに笑われるのは、とても心外であった。
「面白い奴だ」
失礼な男だ。こちらが礼をしたのだから、男の方も礼を返すのが当然だろう。
暫くは俺を見て笑っていた男だったが、表情を引き締め、
「さあ、逃げなきゃならんな」
疑問がある。何故、男は俺を助けたのだろうか? 逃げなければならないのなら、俺の事など放っておいて早く遠くに行けばよかっただろうに。
男は俺を一瞥すると、リュックサックを背負った。俺の問いには、当然ながら答えない。それ以前に通じていないだろう。
その時だった。ガタガタ揺れていたドアが、勢いよく開いた。
「警察だ!」
警察。男を捕まえに来たのだろう。数人が警防を持っていきり立っている。そんなにすぐに熱くなっては、この警官達は紳士にはほど遠い。
男は、うろたえた表情をしていた。何とか逃げ出せないだろうかと思案しているようだったが、それは無理だろう。
このほったて小屋には、ドアは警官のいる一つしかないし、よしんば逃げられたとしても、この人数差ではすぐに捕まってしまう。
俺は、どうするべきか。
この男には、俺は借りがある。俺は男に命を救われた。だから、借りは返さなくてはいけない。これが紳士というものだ。
警察官達は男にジリジリと詰め寄っている。男は後退しているが、壁はすぐそこに迫っていた。
俺は、足音を立てないで男のリュックサックに忍び寄った。中身のカネを漁りつつ、何かがないかと思っていた。
男の言った言葉。それは確か、大切な人間にカネを届けたいというものに要約できたと思う。そして、男は、もう届けられない。
だから、俺が、
届けるのだ。
俺の力では、リュックサック全てを届ける事は出来ない。口に咥えられるだけのカネを持って、あとは行き先を覚えればいい。
それを探している。男が記した地図のようなものがあればいいのだ。
奥底まで見ると……あった。手帳の最後のページに、男の住所の他に、病院の地図が張ってあった。多分、ここだろう。一つの賭けではあったが、やってみるしかない。
手帳とカネを咥えて、俺はドアを出た。結局、人間なんて無能なものである。俺の存在に警官は気付かなかった。
『3』
一週間経った。俺は辿りついた。
ここで正しいのかすら分かっていないが、辿りついた。
俺は、正門から行ったら追い返される可能性があると思ったので、裏口に回った。
そこには、一人の人間がいた。
他の人間とは違い、全身が毛むくじゃらだった。真っ黒な毛が、全身に絡み付いていて、周りの人間は彼を敬遠しているようだった。
俺は、彼に託す事にした。何となく、容姿が我々、黒猫と似ていると思ったからだ。
彼の前に歩み寄り、手帳とカネを置いた。
彼は自分の前に差し出されたそれを、怪訝そうに眺めていたが、裏表紙を見て、
「お父さん……」
と、小さな声で呟いた。
俺は、この場を立ち去った。もう、やるべき事は終わったのだ。
俺は紳士だ。恩は忘れないし、礼もしっかりする。
あのあと、男と彼がどうなったのかは知らない。男は非紳士的な行為をしたようだったから、同族によって制裁を受けたのだろうか。俺の持ってきたカネは、どうなるのだろうか。
俺は猫だ。ただの黒猫だ。出来る事などとても少ない。
後は、紳士的に、彼らの幸福を願うばかりである。
<完>
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