「手紙」
桜が散り、夏の訪れを感じさせるこの頃になると、今でも時々思い出す。
今から20年前……私は大学生で、妹は高校生だったと思う。そして、妹が病気で、病院のベッドから出られないでいたという事ははっきりと覚えている。
私の父は大きな会社の重役をしていて、お金には困ってはいなかった。母はすでに病気で他界していた、その病気というのが妹に遺伝したのかもしれない、と今は思ってもいる(今考えても仕方の無い事ではあるが)
兄である自分が言うのも何だが、妹はとても美人だと思う。
私や父に少しも似ず(それは本当にいい事だと思う)、亡き母の面影を残した艶やかな髪、大きな目、綺麗な肌。妹が母に似ているという事は、中学に上がってから誰もが確信した。
私も、自分のおぼろげな記憶の中の母に、少なからず妹を重ねていたのかもしれない(今思うと、思い当たる節もある)
この話は、妹が母に似てきた頃の話。
その日は、父と私が医者に呼ばれた。嫌な予感がしていた、そしてそれは確りと的中した。
「妹さんの余命は、あと三ヵ月あるかどうかです……」
その医者は私達から必死で目を逸らしている様子で、カルテに視線を落としていた。
どうしても駄目なのか、金なら幾らでも出す。父は医者に怒鳴りつけるような勢いで言った。
しかし、妹の病気は当時の医学では決して治らない難病で、医者は首を横に振るだけだった(今の医学ではどうかは知らない)
私達は理解した……せざるを得なかった。その事実を。
受け入れたくはないものだったが。
一週間が過ぎ、二週間、三週間、一ヶ月。瞬く間に時間は過ぎていった。
空も雲も太陽も、何もかもが変わらない。変わったのは自分なのだと分かっていた。
あの時の私は生まれて初めて「絶望」というものの輪郭を掴んだ気がした。
新緑はそんな自分には眩しすぎ、目がチカチカした。
太陽はジリジリと照りつけ、不快でしかなかった。
妹は病院の一階の個室に移され、治療を行っていた。治療といっても、父が強く希望したから行われているもので、医者の目から見れば何の意味もないものだったのだと後から聞いた。
この頃ははその事は知らず、私はまだ希望があるのだとなんとか自分に言い聞かせ(嘘だとはうすうす分かっていたが)、必死で笑顔を作りつつドアを開ける。
妹は、私の訪問を楽しみにしているようで(学校にも行けなかった為、当然といえば当然だが)、私が見舞いに訪れると楽しげに笑ったり、私に冗談を言ったり、普段よりも明るいようだった。
私もそれに合わせて、明るく振舞うように努めた。
私達は黙って見ていなければならない。妹がベッドに縛り付けられたまま、痩せ衰えてそのまま死ぬ、その時まで。
もう、それは決定されている運命なのだ、と思うと全身に針が突き刺されたように苦しく、狂いそうになってしまう。
しかし、無常にも時間は足を止める事はなく進んでいく。妹の余命もそれにあわせて消えていく。
一ヶ月、五週間、六週間……三ヵ月。時は流れていく。
そうだ、丁度、夏が終わるころ。あの時の事だった。
夏も近いのに、散った桜がどこか寒々しく、病院の冷房と相俟って思わず私は震えてしまった。
妹もその頃は痩せて、自分でも薄々はもう長くない事を悟っているのか、以前のような明るさは無くなってしまった。私はそれが一層辛く思える。
「兄さん、その手紙はいつ来たの?」
その時、私は自分の心臓の音が妹まで届いていないか、本気で心配した。
妹の言葉には疑うような素振りは無い、私はそう判断して、
「お前が寝ている間に置いておいたんだけど、どうかしたか?」
私は用意しておいた答えを返した。
「ふうん……」
妹は手紙を眺めた。
「兄さん、私この手紙を読んだんだけど誰からなのか分からないの」
嘘だ、知らない筈があるものか。私はそう心で叫んだ。
差出人のことなら私は知っていた。直接に会った事は無い。向こうは私を知らないだろう。
私が数日前に妹の見舞いにここを訪れた時、妹は点滴を打つだとかで看護婦に連れられて病室を出た。
それに自分もついていって、態々邪魔をするのも気が引けたので、自然と私は病室で待つ事となった。
私以外に誰もいない病室はいつもより一層冷たい感じがした。
特にする事の無い私は(文庫本でも持っていればよかった)、ぼんやりと部屋全体を見回した。
ベッドにテレビ、点滴の道具などが部屋には置かれている。一人部屋という事もあいまってか、どうもこの部屋は広すぎるような気がした。
私はふとベッドの枕元にある箪笥の上に目をやった。
そこで私は見つけたのだ。10通から20通程度の量の手紙がゴムで纏めてあった。
この時の私は今まで生きてきてからトップクラスに無礼者であったと思う。この時、私は妹の手紙を盗み見たのだ。
何か理由を挙げろ、と言われたらたちまち返事に窮するだろう。理由など無かった、強いてあげるなら「出来心」という類のものだった。
私は、ゴムを外し手紙を広げた。
それの外見は妹の小学校の頃からの友人で、特に他愛の無いものに見える。
しかしながら、内容を見たときには驚いた。
それは全て男(名は伏せておく)からだったのだ。勿論、同じ人物の。
いやはや、その時は本当に驚いた。流石に高校1年ともなれば少しはこのような付き合いがあって然るべきものなのだが、内気な性格だった妹がまさか、と私も父も思っていただろう。
妹かその男か、どちらが考えたのかは知らないが、自分達の仲を誰にも知られたくないと思った、だから妹から実在の知人の名を聞き出して、それを宛名に書いたのであろう。
それを父に言ったらどんな顔をするだろうか(実際に言う気などはなかった)と思いながら、私は手紙を読み進めていった。
本来ならばすぐに元の場所に返すべきだったのだろう。
が、そこまで見てしまったらもう全部読んでも同罪だ、という一種の開き直りをもってして私は最後まで読む事に決めた。
その男は、妹とは中学から付き合っていたようで、野球部で活躍しているが、学校の成績のほうは悪いという典型的な「スポーツマン」という人種らしかった。
色々と趣味の幅が広い男のようで、中々と面白い事が手紙にも書いてあり、妹がその手紙を取っておいた点からも、彼女がそれに助けられていたという事が分かるものだった。
私自身、その手紙から今まで知らなかった事を学んだくらいだ。
しかし、最後の日付……この時から約三ヵ月前、妹が病気になったときの手紙を読んだ時、私は思わず立ち上がってしまった。
体に電流が走った、という表現はこのような場面で使うのだろう。のけぞるほどに、ぎょっとした。
この手紙には、卑怯なことに妹が不治の病だと知るや否や、この男は手紙にて一方的に別れを告げたのだ。その後の日付の手紙が無いことから察するにそれは正解であろう。
何という残酷なことだ、妹が一体何をしたというのだ。その時、二回目に(無論、一回目は妹の病気を告げられた時である)神を呪った。
だが、その事は本人同士のほかには私しか知り得ない事だった、というのが唯一の救いといえばそうだった。
私さえ誰にも言わなければ、妹はそのまま死ぬ事ができるのだ。と私はその思いがけずも知ってしまったその苦々しい事実を胸に留めた。
けれども、それを知ってしまったからには尚更に妹が可哀相に思えてきて、一人で生き地獄を味わっていた。
まるで、私自身がそんな目に遭ったかのように苦しんでいた。この頃は私も少しおかしかったのかもしれない。
「兄さん、読んでいいわよ。私には本当に心当たりが無いから」
表情を変えることなく妹は言った。
私は嘘吐き、と妹を責めることなどできる筈もなく、その手紙を受け取った。
「そうか、読んでいいのか?」
それの中身はもう知っている。だがそんな事を言うわけにもいかない。
私は中身をろくろく見ずに、それを読んでいる振りをした。
「今日は、貴女に謝らねばならないことがあります。
僕がどうして今まで手紙を出さず、かつ最後の手紙でもあんなに残酷な事を書いたのかというと、それは全て自分の弱さから来ているのです。
僕は、弱い人間です。
幸いにも運動が得意で、皆からは慕われていますがそれだけです。
貴女にしてあげられる事が無くなったのです。
ただ安っぽい言葉を並べ立て、封筒に入れポストに投函する事以外には、僕は本当に無能なのです。
何一つ出来ない、僕の無力が嫌になったのです。
僕の愛情と、貴女の不幸が大きくなる度に、僕は貴女に近づきにくくなってしますのです。それが辛くて、僕は貴女に別れを告げました。
しかし、それは僕が間違っていたのでしょう。
それは僕の責任感からくるものだと思っていました。責任をとって貴女を支える事が出来ないのなら、貴女とはもう終わりにしなければいけない、という。
だが、それはそんなものでは無かったのです。
ただ、貴女の前では常に格好良い自分でいたいと思った自分の、単なるエゴだったのです。
僕は無力です、言葉しか贈ることは出来ません。
だから、せめて言葉だけでも誠実に、真剣に贈りたいと思います。
たとえ道端の花一輪の贈り物だったとしても、自信を持って堂々と贈る事のできる、そんな自分になりたいと思いました
僕は、もう逃げません。
僕は、貴女を心から大切に思っています。
どんな些細な事でも、貴女の為にできる事が無いかどうか考えました。
運動以外には何の取り柄も無いと思っていた僕にも、もう一つだけ取り柄がありました。
口笛を吹くのが上手い事です。大したものではありませんが(笑)
この手紙が届いた次の日から、貴女の病室の窓の外から口笛を吹きます。
早速、明日の昼の三時には吹きます。僕の口笛は上手いですよ、一度聞いてみてください。
それが僕にできることです。
笑わないで下さい。いや、笑ってください。
何時までも、元気でいてください。」
「兄さん、私ね、知っているの」
妹は私を見た。私は思わず妹から目を逸らしてしまった。
「その手紙、兄さんが書いたんでしょう。あの手紙の束を読んで」
私は、あまりの恥ずかしさに自分の前髪を掻き揚げた。
黙っているわけにはいくものか、という気持ちはそういう気持ちだったのだろう。
私は毎日、その男の筆跡を真似て妹に手紙を書きつづけるつもりでいた。それから、昼の三時には講義をサボってでも口笛を吹こうと決めていた。
すぐに妹に見透かされてしまい、私は咄嗟に言葉を返せなかった。
「心配なんて、いいわよ」
妹は微笑を湛えていた。
「あの手紙ね、あれは全部ウソ。私が自分に向けて書いたの。馬鹿にしないでね。本当は、男の人と話した事もあまり無いの。
今思うと、こんな事なんてしないで、もっと遊べばよかったと思う。病気になってから分かったけど、青春って大切なものなのね。
一人で自分あての手紙なんて書いているなんて、やっぱり淋しいもんね」
不思議と妹の表情に哀しみの色は見えなかった。寧ろ何かが吹っ切れたとか、そんな清清しささえ感じた。
私は、哀しいやら、悲しいやら、恥ずかしいやら、恐いやら、様々な気持ちで胸が一杯になった。
衝動だけで、私は妹を抱きしめた。妹の体は軽く、片手でも持てそうだった。
妹は一瞬驚いた様子だったが、特に抵抗もせず私に体を預けた。
私の目からは、ただ涙が出てきた。
「私、死にたくない。兄さんともっと一緒にいたかった……」
その呟きは、私の耳に入ったが私は何も反応しなかった。する余裕がなかった。
暫く私は妹を抱きしめていた。
数分ほどたった頃だろうか、窓の外から、聞こえてきた。
ああ、口笛か……。
私は時計を見た。三時だった。
ああ、そうなんだ。なるほどなあ……。
私は自分一人で勝手に納得した。
そして、得体の知れない恐怖に怯え、さらに強く妹を抱きしめた。そのまま、その不思議な音色に耳を澄ましていた。
今思えば、口笛を吹いていたのは私達の話を立ち聞きしていた誰か、父か看護婦のあたりが妹を不憫に思い、狂言したのではないだろうか。
今となっては知る由もないが、私はそうは思わない。
神様だ、と言う気にもなれないが、そうは思わないのだ。
妹はあれから三日後に死んだ。
医者が首を捻っていた。何でそんなに静かに、苦しまずに死んだのだろうと。
私はそのときは驚かなかった。
いつでも覚悟をしておけ、ということだったからかもしれないが、あの時感じた恐怖……あれこそが死だったのだ、そう考えている。
神様には会った事はないが、死神の存在は確かに感じた。今でもそれは変わらない。
今でも手紙を書いている。妹に向けて、毎日。
いやはや、結局のところ、単なる使いづらい日記帳なのだが。
しかし、確かに溜まっていく。
届く事のない手紙が今日も明日も増えていく。
この想いが、この温もりが、大切な貴女に届きますように。
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